『ヘボンの窓』(3)

コロナ災禍にて緊急事態宣言の中、STAY HOMEで図書館や外出もままならず、パソコンからの出展です。

経済人会として経済分野での明治学院の大先輩達を、皆様はご存知と思いますが「ヘボンの窓」にてご紹介させていただきます。

まずは、コロナ後の経済、世界経済でよく耳にします「高橋是清」をご紹介します。

 

                        総務財務委員長  柏原 明   

 

高橋是清  1854-1936年(昭和11年)2月26日没 享年81歳

日本の幕末の武士(仙台藩士)、官僚、政治家。

愛称は「ダルマさん」と慕われ、近代日本を代表する財政家として総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価が高かったが、岡田啓介の首班内閣の6度目の蔵相就任時に2・26事件にて赤坂の自宅で反乱軍の将校らによって暗殺された。

1927年(昭和2)に昭和金融恐慌が発生し、田中内閣の蔵相に就任後日銀総裁の井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させた。

その後、1931年(昭和6)犬養内閣で4度目の蔵相に就任し金輸出再禁止、日銀引受による政府支出(軍事予算)の増額、時局匡救事業で世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた(ケインズ政策)。

 

1864年(元治元年)横浜のヘボン塾(現・明治学院大学)に学び、1867年(慶応3)

藩命により勝海舟の息子(勝小鹿)とアメリカへ留学した。

1868年(明治元年)に帰国し、文部省役人、共立学校(現・開成中学高校)の初代校長、特許局初代局長を務めたが官僚生活を辞めペルーに渡り銀鉱事業を行うが失敗。

帰国後、日本銀行に入り日露戦争発生時には日銀副総裁として英国に渡っての活躍で公債募集を成功させ戦費調達を可能にした。

貴族院議員、日銀総裁、総理大臣、大蔵大臣、農商務大臣、横浜正金銀行頭取他を歴任。

1934年(昭和9年)6度目の蔵相に就任した当時、ケインズ政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見され、これを抑えるべく軍事予算の縮小を図ったところ軍部に恨みを買い2・26事件において暗殺された。

                   (Wikipediaより)