新企画「社長にお聞きする」シリ-ズ 第二弾 出塚容啓社長

 新企画「会長・社長にお聞きする」シリ-ズ(誌上インタビュ―)第二弾は北海道紋別で地元産の原料材料にこだわって蒲鉾づくりをされている出塚容啓氏(でづか よしひろ  81年経済学部経済学科入学)に登場していただきました。

 

 質問へのお答えだけでも充分素晴らしいと思いましたが、参考に添付していただきました10年前のご講演の原稿を拝読し、更に強く感銘を受けましたので出塚様にお許しをいただき講演『地域と食材 ~蒲鉾屋を続けるということ』もホ-ムペ-ジに掲載させていただきました。是非お読みくださいませ。

 

 面識もなくメ-ルでのお願いにもかかわらず、快諾いただき質問に答えていただいた出塚様に心より御礼を申し上げるとともに社業の益々のご繁栄とご健勝をお祈りいたします。

   

総務財務委員会 中村 豊久

 

 

明治学院大学ヘボン経済人会 社長インタビュー【vol.2】  2020年12月

社長インタビュー企画!!

第二弾は北海道紋別市で24年にわたり蒲鉾づくりに取り組んでみえる出塚水産株式会社代表取締役社長出塚容啓さんにお話をお伺いしました。

 

 

Q―出塚社長の経歴を教えてください―

  何年何学部何学科入学ですか?

81年経済学部経済学科入学です。

 

Q―何故、明治学院大学を選ばれましたか?―

雑誌にキャンパスの様子がカラ-で掲載されているのを見て、興味を持ちました。

もしかして、運命的な出会いかも知れません。

それまで、全く知りませんでした。

 

Q―大学時代の思い出をお聞かせください―

  どんな学生生活でしたか?部活は?

  いっぱいバイトをして、いっぱい遊んで、そこそこ勉強しました。

  一生の友達もでき、いまでも集まり騒ぎます。

  特に、部活はやっていません。

ゼミは、経済学(渡会ゼミ)です。

わが校は、適度にコンパクトで、一生の友を作りやすい環境にあると感じました。

わが社のような田舎の小さな会社でも、OB・OGに出会う機会がありました。

業務提携をしている会社の社長さんがOBで、外国人研修生受入機関の支社長の奥さんがOGです。

気が付かないだけで、同窓生は身近にいるかもしれません。

学生時代に、もっともっとたくさん本を読んでおけばよかったと後悔しています。

 

Q―会社の事業内容を教えてください―

かまぼこの製造販売業です。

首都圏では、私鉄電鉄系のス-パ-マ-ケットの「北海道フェア」などで、

販売しています。

ス-パ-では、主に«もんべつさつま»という商品を販売しています。

 

Q―どうして今の会社に入社されましたか?―

子どものころから、家業を継ぐ意志は、まったくありませんでした。

卒業後、東京で就職し、10年間、サラリーマンをやっていました。

先代(父)の急死により、考え抜いた末、継ぐ決断をしました。

このあたりの経緯は、添付文書(以前、講演を頼まれて作った原稿)に縷々書いています。

ご興味があれば、お読みください。

 

Q―二代目?三代目?として、ご苦労されたことは何ですか?―

三代目です。

添付文章にも少し書いていますが、会社は実家ですが、高校までしか生活していなく、会社の住所も電話番号も社員の名前も、かまぼこの作り方さえも、何もわからない状態で、ある日、突然社長になりました。当時36歳でした。全てが苦労と勉強と戦いの連続でした。

 

Q―社長として楽しいこと、辛いことを教えてください―

 楽しいことが何であるか、考える余裕が無い23年間でした。

 辛いことは、サラリ-マン時代には味わったことのない、底なしに無限の孤独です。

 

Q―社長として大切にしてみえることは何ですか?―

 迷ったときは、社長として何が正しいのか、ではなく、«人として何が正しいのか»

を考えるようにしています。

 そして、それを実行する«覚悟»が必要です。

 

Q―この先、会社をどうしたいとお考えですか?

 いくつかの異なる事業的な柱(販売形態)を構築して、今後、また、コロナ禍のような事態になったとしても耐えられる企業体質にすること。

 ひとつの系列が不振の時に、別の系列がそれを補う。全ての系列が絶好調になることなど永遠に無いかもしれませんが、すべてがダメになることも永遠にないと思います。

 一点集中から、分散へ、と考えています。

 

Q―後継者はいらっしゃいますか?―

 会社は、«いきもの»です。生きる意志が強ければ、必ず、次の世代が現れます。

 決して、創業者血族のものではありません。

 

Q―大学の現役の後輩に、学生時代にしておくべきこと等、アドバイスはありますか?―

 自分自身で考え抜いて、正しいと感じたことは、実行に移してください。

 何もしないで後悔するより、失敗して次に役立てるほうが、生きていると実感できると思います。

 私自身は、無能なせいか、成功からは何も学ぶことができませんでした、失敗からしか学ぶことができませんでした。

 そして、たくさんの本を読むこと。

 歴史を学ぶこと。歴史は、«終わった過去の事実»ではありません、未来を映す大切な教訓です。

 

Q―最後に社会で重要なことは何とお考えでしょうか?

 周りに左右されず、何が真実か、何が正しいのか、常に自分自身で考えること。

 噂を鵜呑みにするのではなく、常に原典にあたり、真実を確かめる姿勢と、自分と正反対の意見にも真摯に耳を傾けることだと思います。

 

丁寧に誠実にお答えいただき、誠にありがとうございました。

 

明治学院大学ヘボン経済人会

 

 

 

 

『地域と食材 ~蒲鉾屋を続けるということ』

 

平成22年8月28日

出塚水産株式会社

代表取締役 出塚容啓

 

只今ご紹介に預かりました出塚でございます。

本日は、お招きいただきまして、ありがとうございます。

 

私のような若輩者が、このような席でお話をさせていただくのは、誠に恐縮ですが、短い間ですが、お付き合いをお願い致します。

会社のカタログ類ですが、資料もお配り致しますので、そちらも合わせてご覧ください。

 

【自己紹介】

 まず、簡単に自己紹介をさせていただきます。

昭和36年生まれの49歳です。

私は、蒲鉾屋ですが、いわゆる「匠」ではありません。蒲鉾の原料・製造工程は理解していますが、蒲鉾を作れるわけではございません。

では、なぜ蒲鉾屋をやっているのか、と言いますと、蒲鉾屋のせがれだったからです。

こう言うと、何の違和感もないかもしれません。

でも、子供の私には、大変な苦痛でした。自分の人生が、生まれたときに、もうすでに決まっている、そんな寂しさを感じました。

私は、高校を卒業する時にオヤジと話をし、紋別を出ました。

東京で浪人し、大学に入り、就職。蒲鉾とも、紋別とも無縁な世界に入りました。

就職した先は、コンピュータの世界でした。

 

コンピュータの世界で何をしていたのかというお話は、長くなりそうなのと、本日のテーマとあまり関係がなさそうなので割愛致しますが、足かけ11年間いました。

 

そんなわけで、東京でサラリーマンをしていました。

ところが、平成8年5月、父が足を悪くして入院したとの連絡がありました。命に別状はないとのことでしたが、数日後、見舞いのため、紋別に戻ってきました。

入院している親父の姿が、あまりにも異常なため、医者の制止を振り切って、転院させ、再検査すると、医者から言われたことは、

「大変残念ですが、あと2時間の命です。」

「選択肢は、2つあります。選んでもらえますか?」

「ひとつは、このままこの病院で静かに最後をむかえさせてあげるか、もうひとつは、北見の道立病院まで1時間半かかって救急車で搬送し、手術を受けるか、でもこの病院には輸血用の血液が足りないので、1時間半はもたないでしょう、たぶん、移動中に亡くなるでしょう、決めてください。」

 

結果的には、手術は受けることができたのですが、余命3ヶ月が医者の宣告でした。

夜遅く、北見まで救急車にのって、1時間15分、一緒に移動したのですが、当時は、まだルクシ峠で、それも改良される前で、大変な思いをしました。実は、その時は、17年ぶりに紋別に戻って数日目だったため、「ルクシ峠」という名前も知りませんでした。その峠も今では無くなってしまいましたが。

 

余計な話はこれくらいにして、自己紹介に戻りますが。

 

そんなわけで、詳しいことは割愛致しますが、いろいろ考えた結果、紋別に戻ることを決心しました。それは、蒲鉾屋になることでした、一度は嫌で飛び出した蒲鉾屋になることです。

平成8年、当時、私は36歳でした。

そんな経緯で、蒲鉾屋ですが、修行もしていないので、「匠」ではないのです。

 

ずいぶん前に見た映画で、讃岐地方、たぶん現在の四国の香川県あたりと思いますが、「Udon」という映画がありました。私は別にフジテレビからお金をもらっているわけではありませんが、私とよく似た境遇のうどん屋のせがれ役の「ユースケサンタマリア」という俳優が、「ここには夢がない、ただうどんがあるだけだ」と言って、家を飛び出す物語です。あんまりストーリーを話すと、これから見ようとしている方に怒られるので、話しませんが、何か共感できる部分もありました。

まぁ、どうでもいい話ですが、「さぬき地方」の地域の食材を題材にした物語です。

つまらない自己紹介は、これくらいにしておきます。

 

【久しぶりの紋別】

そんな理由で、17年ぶりに戻ってきたのですが、我が故郷「紋別」の変貌に驚きました。

国道はバイパスへ移り、商店街は駐車場と空き地になり、良くてもシャッター街となっていました。商店街を歩く人もまばらで、さびしい感じがしました。私の記憶に残っている紋別は、国鉄(JR)があり、中心市街地には毎日買い物客が歩いていました。

昭和初期の古い地図を、私どもの新店舗2Fに掲示していますが、JRがあった時代は、賑やかであったような気がします。

しかし、紋別に戻った平成8年には、そうではありませんでした。

 

そんな平成8年ころ、おやじは、死ぬ直前まで、新しい工場を建築する計画をもっていました。予定地は、渚滑町1丁目、私が子供のころ、加工場が集まり栄えていた地域です。

地元の方はご存じでしょうが、紋別から興部へ向かう旧国道沿いの地域で、かなり紋別寄りの場所です。目印としては、トヨタカローラさん、旭川トヨタさんなどがあるところです。

 

そんな計画をもちながら、平成8年9月11日、がんで急死し、その夢はかないませんでした。

このときから、おやじの夢は、私の目標へ変わりました。

 

それから13年かかって、やっと新しい工場兼店舗が完成し、開業しました。平成20年9月11日でした。2年ほど前になります。

 

もっと早く実現できれば良かったのですが、私に勇気がなく、一度計画して中止をしたりしていました。そのおかげで、10数年間じっくり考えることもできました。

具体的な計画を検討し始めたのは平成18年2月、計画を社内に発表したのは平成18年9月、最終的に決断したのでは、平成19年2月頃でした。

 

建設用地の選定、購入設備の検討等々、様々問題があり、建築が開始されるまでに、1年以上かかりました。

 

新しい施設は、大きく2つ目標をもっていました。

ひとつは、製造能力の向上、最新の衛生管理を備えた工場であること、もうひとつは、店舗機能の充実でした。

 

店舗機能として、6つの機能をもつ建物が目標でした。

店舗

お客様用休憩スペース

見学コース

体験コーナー

事務所及び社員休憩室

駐車場 でした。

これら6つは、以前の店舗では、無いか、もしくは狭いものばかりです。私が新店舗では、絶対に解決せねばならない問題として10年以上も考え続けてきたものです。

 

しかし、建設用地の広さと形状(縦長)の問題で、見学コースと駐車場をあきらめざるをえない状態になりました。

 

この後、「工場見学」は、「工場見学通路」として復活するのですが、これには、今日の実行委員長をされている桒原測量設計事務所さんのアイデアによるものです。

また、建築費が肥大化したため、一部製造設備と工場面積の見直しをおこなったため、建物が短くなり、その結果、駐車場が広くなりました。

結果論ですが、すべての機能がそろったわけです。それぞれ少しづつ小さくなりましたが、欠落した機能はなく、ある程度満足の行く建物となりました。

 

【完成開業】

建築が開始されたのが平成20年春、9月10日竣工式、翌11日開業いたしました。

平成20年9月11日は、亡き父の13回忌当日でした。

この日は、いわゆる『9.11』、アメリカ人も永遠に忘れることのできない日ですが、私も忘れることができない日となりました。

 

1930年、昭和5年、出塚水産が誕生した場所は、本町5丁目でした。

私が生まれた時は、本町6丁目の「館」と「蛇の目寿司」の間に工場があり、店と冷蔵庫が本町5丁目にありました。店と言ってもそまつなものでした。

そして、小学校4年生の時、本町5丁目に、工場と店舗と住宅をまとめた建物を建築し、昨年港町5丁目に今の新店舗工場を建築しました。

今から考えれば、この計画は何度も何度も変更され、延期され、予定通り進むことのない状態でしたが、最終的には、落ち着くべき所に落ち着いたのかな、と感じています。

 

【衛生管理とエコ】

そんなこんなで完成した工場も、昨年(平成21年)、北海道HACCPの認証を受けることができました。

 

HACCP:Hazard Analysis and Critical Control Point

HACCPは1960年代に米国で宇宙食の安全性を確保するために開発された食品の衛生管理の方式です。

Hazard Analysis and Critical Control Pointの頭文字をとったもので食品の衛生管理システムの国際標準である。

和訳は「危害分析及び重要管理点」が一般的で、略してハサップ又はハセップと呼ばれる。

1960年代の米国アポロ計画のとき、宇宙食の安全性確保のために構築された。従来のような最終製品の抜き取り検査で安全性を保証する方式でなく、技術的、科学的な根拠に基づいて連続的に管理状態をモニターし、製造ロット内のすべての製品を保証しようとするものである。

この方式は1993年国連の国連食糧農業機関(FAO)と世界保健機構(WHO)の合同機関である食品規格(Codex)委員会から発表され、各国にその採用を推奨している国際的に認められたものです。

我が国では、1996年5月に食品衛生法の一部を改正し総合衛生管理製造過程(製造または加工の方法及びその衛生管理の方法について食品衛生上の危害の発生を防止するための措置が総合的に講じられた製造、または加工の工程)の承認制度が創設され、1996年5月から施行されました。

 

ここ数年、食品事故が大変大きく取り上げられることが多く、食品業界は、お客様から大変厳しい目で見られています。

そのため、厳密な衛生管理が必要です。

 

HACCPという衛生管理は、食品業界ではもう10年近く前から取り上げられてきましたが、最近では、「エコ」と言われる、ものを大切にすることも重要な要素となってきています。

ところが、衛生管理とエコは、相容れない部分があり、悩むことも多いのが現状です。

 

たとえば、

古い工場から、今の工場へ引っ越しをするときに、持っていってはいけないものがいっぱいありました。

たとえば、商品をストックするために、使っていた木箱です。私が子供のころは、箱と言えば木箱、プラスチック製の箱なんてありませんでした。私が紋別に戻ってからも、何年かに一度は、100箱~200箱づつ、バイパスの南谷さんに作ってもらい、壊れた箱と入れ替えていました。木箱は軽く、安く、長持ちします。化石燃料も使っていません。Co2も出しません。

ところが、HACCPでは木箱は禁止、代わりに化石燃料で作ったプラスチック製のストッカーなるものを最終的には、1000個以上購入し使っています。

壊れたプラスチック製ストッカーは、一般には燃やすこともできず、産業廃棄物となります。木箱は、近所の方が、焚きつけにもっていってくれました。

新工場は、エコの観点から、化石燃料を使わず、電気とガスだけで稼働しています、しかし、使用する容器をすべてプラスチック製に変えなければならないとは、なんかちょっと釈然としません。

 

他にもあります、

新型インフルエンザで一時期品薄となったマスク、それから手袋などです。

私どもの工場でも、使い捨てマスク、使い捨て手袋を使っていますが、HACCPの観点から、1日使ってから捨てるのではなく、一度はずすと、もう二度と同じものは使わず、必ず新品に変えます。そのため、一人の従業員が、一日で何枚も何枚も使うことになり、毎日大量の使い捨て手袋とマスクが破棄されます。

貧乏症の私には、なんかちょっと変な感じがしていましたが、最近慣れました。

 

他にも、ペーパータオル、キッチンタオルなどなど、毎日毎日大量の廃棄物がでます。いくら店頭で、「エコ包装にご協力ください」などと言っても、内部はエコとは無縁なものも結構あります。

そんなこともあり、食べるものを作るのは、大変厳しい時代になっています。

 

【店頭販売】

このように製造現場も大きく様変わりしましたが、店舗も大きく変わりました。

以前の店舗は、店も狭く、3,4人も入れば窮屈な状態で、揚げたて蒲鉾を売っているのに、揚げたてを食べるスペースもなく、駐車場もない、誠に失礼な店でした。

今の新店舗は、1Fの売り場面積は3倍となり、2Fには休憩スペースもあり、揚げたてをゆっくり召し上がっていただける構造に設計しています。

計画当初より、揚げたてかまぼこを召し上がっていただくスペースには、醤油などの調味料を置くことを考えていました。

オープン日が近づくにつれ、醤油以外にも、試しにいろいろ置いてみようかと考え、ソース、マヨネーズ、タルタルソースなどなど、置いてみました。

そうすると、一番はじめに無くなったのは、なんだと思いますか?

タルタルソースです。二番目がマヨネーズです。

私は、当然醤油だと決めてかかっていました。驚きでした。

もうひとつ、驚くことがありました。

その2Fの休憩スペースには、給茶器も設置し、無料で、緑茶、コーヒーの各ホット、アイスを飲めるようにしました。

私は、当然緑茶が一番利用されると思っていましたが、結果は、ダントツでコーヒーでした。

 

つまり、アツアツの揚げかまぼこに、「タルタルソース」をつけ、コーヒーと一緒に食べていることになります。

私は、当然、アツアツの揚げかまぼこは、醤油をつけ、緑茶で食べると決めてかかっていました。衝撃でした。

 

時代が変わったからなのでしょうか?

いずれにしろ、蒲鉾屋が従来の固定概念から抜け出せないでいるあいだに、お客様は、我々作り手の一歩も二歩も先を進んでいるのです。

 

【体験コーナー】

かまぼこ作りを、一般の方々にも体験してもらおうということで、新店舗には「かまぼこ作り体験工房」つまり体験コーナーを作りました。

この体験コーナーには、以前、「氷紋の駅」にあった「デリかま」という支店のノウハウもいっぱい詰まっています。

体験コーナーの狙いは、いろいろありますが、一番重要な目的は、「かまぼこを身近な食べ物」として感じてもらうことです。

 

体験コーナーは、開業から一ヵ月ほど遅れてスタートしましたが、すでにかなりの数の方々に体験していただいています。

体験コーナーは、べたべたのすり身と、コーンやチーズ等の具材を手でこねて、形をつくってもらい、当社の社員が油で揚げてお渡しするという簡単なものです。

社内で社員がやれば、15分程度で終わるような内容ですが、実際には1時間半くらいかかります。

なぜかというと、みなさん、形にこだわるからです。

その中には、大変芸術的なかまぼこもあり、すり身で恐竜を作ったお子さんがいたり、日本地図を作ったかたがいたり、社員が思わず写真をとってしまうような素晴らしい作品がたくさんできます。

 

以前、知り合いのお子さんに、練り製品を食べない子供がいました。食べず嫌いか、もしくは、過去に相当変な蒲鉾を食べたのか、詳しくは聞いていませんが。

そのお子さんが、体験コーナーで自分で作った蒲鉾を「おいしい」といって全部食べたそうです。それはそうです、自分で作ったものはおいしいに決まっています。

これが、体験コーナーの狙いです。

それ以来、蒲鉾をたべるようになったそうです。

 

こんな簡単な体験コーナーでも、誰でもが簡単にできるからこそ、親しんでもらえ、身近なものとして感じてもらえるのです。

自ら参加することで、理解が深まり、記憶に残る。

今、蒲鉾にはそれが必要と考えています。

 

【蒲鉾業界は】

蒲鉾業界は、昭和50年代に「カニ風味かまぼこ」、いわゆる「かにかま」の発明により一気に消費が拡大しましたが、それをピークにどんどん低迷しています。

15年ほど前は、全国に2000件あるといわれていた蒲鉾屋ですが、毎年、10数件の蒲鉾屋が廃業していきます。

ある日、住んでいる町から、蒲鉾屋がなくなる、そんなことが各地で起こっているのかもしれません。

結果として、時代とともに、かまぼこが身近なものではなくなってきているのかもしれません

さらに、昨今の経済状態もあり、原料問題もあります。

 

私は、蒲鉾を「絶滅危惧食品」と呼んでいます。

皆さんは、どれくらい蒲鉾を食べますか?どうやって食べますか?

昔は、ラーメンには必ず「なると」が入っていたものですが、現在ではほとんど見かけません。せいぜい「さんぱち」の社名入りの「なると」か、カップヌードルの乾燥なるとがいいとこです。なくなるということは、「必要がない」ということです。

 

もし今、家庭で蒲鉾を使った料理を子供たちに教える人がいなくなれば、蒲鉾は消えていきます。今、どのくらいの家庭で蒲鉾料理を作っているでしょうか?

春には、ふきと天ぷらの煮物を食べているでしょうか?

おせち料理に旨煮を作っているでしょうか?

家庭のラーメンに「なると」は入っているでしょうか?

蒲鉾は料理の材料になっているでしょうか?

私はこの10数年間、ずっと、そんなことを考えてきました。一生懸命、美味しいものを作る努力をしても、必要の無いものを作っていては意味がありません。

体験コーナーは、そんな思いからスタートしています。

工場見学通路も同じ考えで作られています。

 

【ファーストフード】

昔、私が子供の頃、街の中の廉売で、おばちゃんが、すり身を丸めたり、棒に握って、油で揚げて、売っていたものです。私の店にも、1個10円の揚げ蒲鉾があり、子供たちが10円を握り締めて、買いに来てくれたものです。串にさして、歩きながら食べている姿をよく見かけました。まだ、私が小学生の頃のことです。ずいぶん昔のことです。

 

そこで、先ほどの2Fの休憩スペースのタルタルソースとコーヒーの話に戻りますが、よく考えると、ハンバーガーショップに似ていませんか?

メインは、ハンバーガーとフライドポテトではなく、揚げかまぼこですが、タルタルソースをつけ、コーヒーと一緒に、カウンター席で海を見ながら食べる。

 

もしかして、こんなところに、「絶滅危惧食品」からの脱却のヒントがあるのかなと考えています。

 

また、映画「Udon」の話になりますが、物語の後半に、「ブームはいつか去るが、本物はいつまでも残る」というような展開になります。

かまぼこで、生キャラメルのようなブームを作ることは永遠にないと思っていますが、それでも、ここ紋別で、魚の獲れるオホーツクで、蒲鉾を作り続ける意味はあると考えています。ブームになることよりも、永く永く続けることを考えています。

 

私は、17年間、板橋区に住んでいましたが、残念ながら、そこには誇れる食べ物はありませんでした。

東京は食べれる物を何一つ作っていません。彼らはただ食べるだけ。

地方のお父さんやお母さんの作ったものを、「うまい」とか「まずい」とか言って食べるだけです。かつては、私自身もそうでした。

15年前までは、パソコン業界に身を置き、食品とは無縁の世界に11年間いました。

36歳で蒲鉾屋になり、初めて、食品を売るようになり、感じているのは、「食品を売るというのは、その地域を売る」ことに近いのかもしれないということです。

私どもの店舗には、いろいろな地域からお客さんが来てくれますが、最終的にご来店いただいたお客様の記憶に残るのは、私どもの会社名ではなく、「紋別のかまぼこ」とか、「紋別のかに」とか、「紋別に行ったときに食べたあれあれ」とか、という記憶です。

もしそうであるならば、地域と食べ物は一体となり記憶に残るのかな、と感じています。

そんな組み合わせが、いっぱいできると、各地の人に「紋別のあれ」という記憶がいっぱい広がり、最終的には、地域を活性化することに繋がるのかもしれないと考えています。

 

今年、創業80年を迎えます。

コンピュータやファッションに比べれば、はるかに地味な商売で、若い方々には魅力の無いものかもしれませんが、それでも、こつこつと、紋別で続けていこうと考えています。

私は、いつも、オホーツクでかまぼこを作り続ける意味を考え続けています。

 

そろそろ時間となりました。

雑談みたいな話で申し訳ありませんでした。

本日はありがとうございました。